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淡路本町商店街についてabout Awaji

現在の淡路本町商店街、そして淡路地域と商店街の歴史についてご紹介します。

淡路本町商店街についてabout Awaji

淡路本町商店街は、阪急淡路駅西側を出てすぐの商店街です。長年、地元のお客様と、淡路駅を利用のお客様に親しまれて参りました。

阪急淡路駅は、地下鉄堺筋線とも連絡し、北千里、高槻、京都へ、また、 十三から梅田へ、そして石橋、宝塚へ、芦屋、神戸へと、交通の要所となっています。

人通りの絶えない大変にぎやかな商店街です。今日も街の皆様の笑顔が溢れる商店街を目指して、組合員一同努力しています。

 

淡路の伝承Legend of Awaji

菅原道真が京都より左遷され、淀川を下り、九州大宰府へと流される途中、「淡路島」と間違って、現在の淡路本町一丁目に上陸し、この事から「淡路」という地名がついたといわれている(※1)
真意はともかく、当時の淡路は、淀川下流域の島々の総称である中島に含まれ、柴島・上中島などにその由来が残っており、川から海に出る地点であった。
淡路の庄と称されていたこの地は、淡路村の増島(ましま)と高畑(たかばたけ)の2つの地区に分かれた。

※1三善貞司『大阪史蹟辞典』初版清文堂出版前田成雄昭和61年23ページ

淡路地域の変遷History of Awaji

大正10年淡路駅の誕生

サンプルイメージ

淡路村の増島地区に、北大阪電気鉄道株式会社により東海道本線の廃線地区を一部利用し「淡路増島駅」がつくられた。この電車は、「お墓参り電車」と呼ばれ、豊津の方へ墓詣に出かける人々で賑わっていた。当時の記録によると、乗降客は三百人前後であった。

 

 

大正14年國次町と名づけられる

西成郡 西中島村 大字 淡路という地名が、大阪市の市域編入の際に、國次町(くにつぐちょう)となる。地名は、有名な刀匠の来國次(らいくにつぐ)が淡路の庄に住居していたという故事による。

昭和14年淡路新町生まれる

下新庄・國次町・豊里菅原長の各一部から淡路新町が生れる。

昭和15年国鉄東淀川駅誕生

国鉄東淀川駅が開設。
現在の淡路本町商店街振興組合の前身ともいえる、淡路商昌会が発足。

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昭和20年戦争と空襲

6月7日、B29が飛来、空襲によって柴島水源地の沈殿池、送水ポンプ場や主要幹線もこわされ、市内全域の送水が止められた。終戦後、商店街がいち早く活気をおび、映画館やパチンコ店ができ、すさんだ人々の心に、生きる勇気の灯をつけ、「人情豊かな庶民の街」として、今日の基をつくりあげた。

 

昭和20年代商店街の賑わい

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阪急淡路駅西の商店街が主催して、歌謡コンクールや盆踊りが行われ、鈴蘭灯もつき、終戦後としては賑やかな通りとなった。駅前の空地にできた青空劇場「淡路座」は周囲に板を張り巡らせ、中央に舞台をつくるという簡易なものであったが毎日大入満員の大盛況だった。

 

 

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昭和30年代

国次町(國次町)の町名変更・地番変更が進み、東淀川区役所が十三に移転、淡路地区には本庁と同格の出張所がつくられた。新幹線高架工事に対する、反対の住民運動がはじまる。

昭和36年新大阪駅開業と、振興組合の誕生

新大阪駅が開設。
東京オリンピックが開催されたこの年、大阪府下23番目の法人団体として、淡路本町商店街振興組合が誕生。

昭和40年代

阪急淡路駅の新しい地下道が開通し混雑が解消された。東西の商店街とスーパー・市場・銀行も参加し、謝恩の催しとして「淡路まつり」を開催。

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昭和50年代アーケード完成、ついたちバーゲン開始

50年に近代的な電動アーケードが完成、55年にはカラー舗装が完成し、「ついたちバーゲン」を開始。以後、現在に至るまで、定例となる。56年に商店街振興組合ビル完成し、近代的な商店街としての設備が整う。

 

 

平成6年

お客様へ継続的な感謝を込めてカード事業「JJカード」スタート。

平成7年阪神大震災発生

1月17日に発生した、阪神淡路大震災による混乱とショックは各方面に及んだ。震源地は当地区と名前を一つにする淡路島。同年、新アーケード・新カラー舗装が完成された際に、チャリティーオークションを併催し、多数の皆さんのお心を収益金とあわせて震災地へ送る。

平成10年代

インターネットホームページ完成。

平成20年代

淡路の魅力づくり委員会設立。

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